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 職業柄、現場から現場へと移動することが多いのです。そんな折、道の脇、樹の影、遠景の防風林の向こうに朽ちかけた建物や看板、石碑などが目に入り、ふと気になることがあるのですが、大抵の場合は時間の関係で見過ごさざるを得ません。私はこういったものが結構気になる質で、たまに時間の空いた時など確かめてみることがあります。大抵の場合は「ほう、なるほど」という程度なのですが、中には時を越えて語りかけ来る大変興味深いものに出会うこともあります。
 建てたもの作られた物は時とともにいつか消えて行くのですが、時代の流れの中で、建物と一緒にかつてそこで営まれた人々の生活や記憶まで忘れられてしまうのは寂しいものです。
 すでに朽ちているもの、古くても現役バリバリで頑張っているもの・・・ふと見つけたぽつんと残る昔の面影をご紹介します。
7.コッホさんの家      <川上郡清水町下士幌基線70>
1)道端の看板 古い話で恐縮です。
 12年程前の夏、熊牛(清水町)のあたりの現場で仕事をしていました。ある日、通りかかった農道の脇に「コツホの旧住宅」と書かれた看板を見かけました。場所は清水町下佐幌基線70の辺りです。看板から続く道先にそれらしい建物(写真中央)が見えます。
 ベルを押すともう60年ほど住まれているというお年寄りが出てこられ丁寧に説明してくれました。まだまだ現役のこの木造住宅、もちろん途中何度も手を加えてはいるのでしょうが、当時すでに築80年、今では90年を越す建物です。
2) コッホって誰?      
 さて、そのコッホさんですが、1923年(大正12年)に北海道が農業振興のために外国から招請した4人の農業技術者・指導者の中の1人で、ドイツから甜菜(ビート)の栽培農家として招請されました。このとき,他に同じ甜菜の栽培農家としてドイツからもう1戸が帯広に、またデンマークから有畜農業の指導・育成を目的に札幌地区に2戸がいずれも5カ年契約で招請されました。これは、当時あまり効率の上がっていなかった北海道農業に農業先進地の技術を普及させること、中でも十勝に招請された2軒の甜菜栽培農家は一旦挫折しかかっていた日本の精糖業、甜菜(ビート)の作付け推進を目的に行われたものでした。
3) コンクリートの犬小屋      
 お話を聞きながら庭に目をやると、コンクリートの大きな箱があるのです。屋根の部分はアーチになっています。「何ですか、あれ?」とお尋ねしたところ、「私がここに来た時にはもうありました。コツホさんの犬小屋だつたのでは?」との話。「コンクリートの犬小屋」(?)「ドイツ人ってどんだけ犬好きなんだ!?」 あまり釈然とはしなかったのですが、私の性格の一つに「何だ、これ?!」となっても、未解決のまま何時までも引きずるところが有ります。「あつ、そうか!」が出てくるのに時間がかかるのです。セカセカしない余裕の人生…と思うことにしてはいるのですが。
4) 10年+αの時が流れて 
 今回は解決までほぼ10年が必要でした。
 2年程前、足寄町「ありがとう牧場」(※施工例参照)の庭先に依頼されたピザ窯を造るのにレンガを積んでいたとき、フと、この形はどこかで見たような?…思い浮かんだのが、「コッホさんの犬小屋」でした。レンガとコンクリートの違いはあるのですがドーム型の屋根といい、全体の形といいそっくりです。あのコンクリートの犬小屋は「ピザ窯」ならぬ「パン窯」だったのではないか?。思えば「コツホ旧住宅」周辺は今も商店とは無縁なところ。まして当時焼きたてパンの店があったとは考えられません。とするとドイツから来日し、あそこで7年間(※)営農されたコッホさん一家6人にとってパン窯は必需品だったはずです。 (※招請は5年の契約だったが2年延長された)
5) 消えた犬小屋 
 そう思うとあの「コンクリートの犬小屋」をもう一度「パン窯」として見てみたいと、私が勝手に「高台の家」と呼んでいる清水町美蔓の現場からの帰りに訪ねて見ました。お年寄りはご健在でしたがもう私の事はお忘れのようでした。何といっても12年ぶりです。幸い丁度息子さんが帰っていらっしゃって「コツホさん」について貴重なお話をいろいろお伺いする事ができました。ところが庭のどこにも「コンクリートのアーチ型犬小屋」が見当たりません。聞くと「コツホさんのお孫さん達が運んで行きました」との話。「えっ、ドイツにですか?!」びっくりしました。
      伺った話
 コツホさんご夫妻には男2人,女4人のお子さんがいて、一家がドイツへ帰国する年、次女のヘルタさんが酪農家志望の日本人青年、三澤正男さんと結婚、日本に残った。結婚が昭和5年11月29日、一家の出発が12月4日。「家族を横浜まで見送ったのが私たちの新婚旅行でした」というヘルタさんの話が残っている。
 三澤正男さんは有畜農業の自営を心ざし、モーテン・ラーセン氏(※コッホさんと同時に札幌真駒内に招聘された)の農場で学んでいた。ラーセン氏とコッホ氏は親交があり、ヘルタさんに会う機会もあって結婚に至った。
 二人は昭和9年下音更村入植を振り出しにヘルタさんが後に「死のうと思ったことも何度もある」と語っているほどの苦闘を続けた。その間農民運動にも深く関わり、また国内外のホルスタイン系の共進会で数多くの賞を受賞もしている。後に移住した八雲町では昭和17年に町議会議員、昭和22年には道議会議員も務め、北海道農政振興にも尽力した。昭和28年、正男、ヘルタの夢は『株式会社三澤牧場』として結実したのだが、翌年9月26日、出張のおり乗船していた青函連絡船洞爺丸が台風のため遭難、正男氏は帰らぬ人となった。
6) 日本に残ったコッホさん 
 実はコッホさんの次女ヘルタさんが日本の青年と結婚されて残ったのです。現在八雲町にお二人の長男、三澤道男さん(コッホさんのお孫さん)が住んでいてパン釜を引き取ったのでした。十勝、清水町の「コッホの家」で家族の糧を焼いていた「パン窯」は90年の時を経て、お孫さんにバトンタッチされたことになります。
休みに訪問させてもらったのですが、三澤道男さん元気な78歳でした。『三澤牧場』の住居は豪快な居間の空間や渋く錆びた球形の大きな薪ストーブ、壁に貼られた家族の写真など住居も『開拓者の家』がピッタリでした。
 道男さんにお会いして、大変失礼なのですが私は以前からの友人に会つたような親しみを感じました。また、2014年当時まだ学生さんだった道男さんの息子さん(コッホさんから見て曾孫(ひまご))が運んだパン窯でパン焼きを体験したことで触発され、現在神戸でパン焼きの修業をしているとか、コッホさんのパン窯は作られてから90年を過ぎた今、また新しい家族に夢・目標を示している。すごいですよねえ。
三澤正男氏とヘルタ・コッホさんの結婚式
正男氏とヘルタさん
八雲の自宅前で
コッホさんの犬小屋ならぬパン窯(八雲にて)
 とにかくコッホさんのお孫さん三澤道男さん「カツコイイ」人でした。 たくさんのお話を聞かせていただき食事までご馳走になって帰って来ました。
7) 資料 フリードリッヒ・コッホという人 
 偶然見かけた小さな看板が「まさか」のロマン溢れる歴史に繋がっていました。あまりにも興味深い話だったのでコッホさんと北海道の関わりに付いて調べて見ました。
 話は明治に入っての蝦夷地開拓から始まります。
      参考資料・文献
・北海道・マサチューセッツ協会発行
 (HOMASニューズレター日本語版No.54)
・日本甜菜糖株式会社「ビート資料館」資料
・三澤道男氏著「酪農余滴」(三澤正男遺稿集)
 (1)コッホさんはなぜ十勝にいたのか
 明治政府が開拓使を設置し本格敵な蝦夷地開拓を始めたのが明治2年(1869)です。ちなみに「蝦夷地」が「北海道」となったのもこの年のようです。翌明治3年(1870)には黒田清隆が開拓次官となり、「ホーレス・ケプロン」、「エドウィン・ダン」を招聘。北海道各地に開拓団を入れ本格的に農業開拓が勧められたのですが、当時は広大な原生林を切り開く段階で出る木材を売ることを目的に、跋根もせず落ち着いた農耕もせずに新しい土地を求めて異動してしまう農家(?)やまた元々土地が肥えていたので施肥等養生もなしに連作し5〜6年して地力が落ちると新しい土地に移るという流れ農法(?)的農家も多く見られたようです。大正6年(1917)になって地力の衰えを回復させるため有畜農法の普及を意図した「北海道第2期拓殖計画」が立てられます。大正11年(1922)には有畜農業の実績のあるデンマークの模範農家を招聘。翌大正12年(1923)には同じくデンマークからモーテン・ラーセン、エミール・フェンガーを札幌に、十勝には当時甜菜(ビート)製糖の技術の高かったドイツからウィルヘルム・グラバウ(30歳4人家族)と、フリードリッヒ・コッホ(43歳6人家族)を招聘しました。
 ここで初めてコッホさんにたどり着きました。十勝の産業、「甜菜糖」(ビート)の歴史でもありました。
(※『ビート資料館』〒080-0831 北海道帯広市稲田町南8線西14番地)
 (2)コッホ氏とグラバウ氏(十勝の甜菜製糖)
 甜菜(ビート)による製糖は明治初年から札幌で取組まれていたのですがうまく行かず、一時は廃止の動きも有ったそうです。しかし第一次世界大戦でヨーロッパが荒廃し甜菜の生産が壊滅的となり、世界的に砂糖の需要は急騰したため日本は方針を転換。精糖業の立て直しをはかり、大正12年甜菜製糖の先進国ドイツからフリードリッヒ・コッホを十勝清水町(当時人舞村)の明治製糖所所有地に、ウィルヘルム・グラバウを帯広の北海道製糖会社所有地にを招聘したのです。連作を嫌う甜菜(ビート)に広い土地が得られる十勝は適地でした。
フリードリッヒ・コッホ
 ここではパン窯の持ち主だった「コッホ氏」について書きますが、彼は特に研究者とか学者ではなく、小学校卒業後ドイツの製糖会社甜菜部に勤務、ビート栽培技術者として高い評価があった人で招聘当時43歳。妻ベルタ43歳、長男オットー20歳、次男リヒャルト18歳、長女エルナ16歳、次女ヘルタ14歳の6人家族。住居にしたのは清水町下佐幌基線70番地で、ほぼそのまま現存している。
 住宅はドイツの農家を参考に2階建(24坪)。畜舎(40坪 7舎)。豚舎(5坪)。倉庫(40坪)。「混合農業経営」で、甜菜を中心に家畜、家畜人参、燕麦、麦類、トウモロコシ、豆類、馬鈴薯、クローバーなどを扱っていた。
 コッホ一家は十勝の生活になじみ契約期間を延長して7年間を十勝で過ごし、ドイツに戻ったのは昭和5年(1930)でしたが、この年、次女ヘルタさんが三澤正男氏と結婚し日本に残ることになります。
       混合農業
 家畜飼育と作物栽培を組み合わせた農業。ヨーロッパ中緯度地域の農業の基本形態。食用穀物と飼料作物を栽培し、同時に牛、豚など家畜の飼育販売も目指していました。
 (3)三澤正男という人
 ヘルタさんが結婚した三澤正男氏とはどんな人だったのだろうか。彼の略歴を見ると
明治37年 遠軽町にて三澤恒助・なつの三男として出生(10人兄弟)。
大正5年 遠軽尋常高等小学校尋常科卒業。
大正12年(20歳) デンマークから招聘され真駒内にて有畜農業の指導にあたっていた
     モーテン・ラーセン氏に師事、コッホ家でヘルタと知りあう。
昭和元年 遠軽家庭学校に奉職、農業の指導に当たった。農民運動にも参加。
昭和 5年 ヘルタと結婚。コッホ一家ドイツに帰国。
昭和 9年 三澤一家下音更村に入植。
昭和10年 酪農自営。
昭和13年 八雲町大平農事株式会社主任。
昭和17年 八雲町議会議員。
昭和20年 終戦後旧八雲陸軍航空隊員の営農希望者への就農指導や幅員農事者の営農斡旋などに尽力。
     (※コッホ一家の住む街が東ドイツ領となり、手紙も難しい状態となってしまった)
昭和22年 道議会議員(社会党)となる。
(※国内、国外のホルスタイン種共進会などで優勝多数。)
昭和27年 デンマーク万国畜産会議出席(ヘルタ同伴)。
     西欧各国、米国、カナダなど3ヶ月に渡り視察。
     ※ドイツではヘルタの里帰りを意図したが、実家が東ドイツ領内であるため家には帰れず
    24年ぶりの再開はベルリンの街中での48時間に終わった。
昭和28年 『株式会社 三澤牧場』法人登記。(ふたりの夢が実現しました)

昭和29年 公務上京途中洞爺丸にて遭難、死去。

 10年ほど前、通りがかりの小さな看板に誘われて目にした築80年ほどの古い住宅と庭に置かれたコンクリートの箱。10年後それが壮大な歴史ドラマを語ってくれるとは夢にも思いませんでした。
 遠く日本まで農業技術を伝えに渡ってきたドイツ人一家。新しい農業を起こそうと夢見る日本人青年、三澤国男さん。そして彼とドイツの娘さんヘルタさんとの国籍を越えての結婚。開拓農家として農民運動家としての労苦を乗り越えての成功。まるで『まつさん』の様なハッピーエンドのサクセス・ストーリと思ったら、念願の牧場を開いた翌年国男さんが遭難死されてしまう悲劇。だが90年年後の今日、コッホご夫妻のパン窯が、孫、曾孫(ひまご)の手によって火を点され再び熱々のパンを焼き始めたという。 
 「事実は小説より奇なり」・・・つくづく感じさせられました。
 

6.旧陸軍航空隊官舎・寄宿舎  <帯広市緑ヶ丘周辺>
1)一冊の名簿
 昨年上士幌町で自転車店の店舗兼住宅新築の仕事がありました(※『工房ニュース』「街の自転車屋さん」)。工事に先立ち荷物整理を手伝っていたところ、「元北部第150部隊在職者名簿」というガリ版刷りの名簿が出て来たのです。聞くと、ご主人のお父さんのもので、お父さんは太平洋戦争の時、志願し『軍属』として陸軍航空隊で爆撃機のエンジン整備をしていたというのです。14〜15歳だったといいますから、中学3年生頃でしょうか。そしてその頃起居していた軍の宿舎が現在の緑ヶ丘小学校の向かい側一帯にあったのだそうです。
 驚きました。「公園」「動物園」「美術館」など文化的な施設が多く設置されている緑ヶ丘一帯は我々のような戦争を知らない帯広人にとっては軍隊や戦争とはかけ離れた平和で文化的なイメージの地域ではないでしょうか。そこに軍の部隊があり、その官舎・宿舎があったというのですから。まさに「想定外!」でした。
2)軍用引き込み線
 なにか裏付けるものは?と探すうちに昭和29年の帯広市の地図に根室本線から競馬場の脇を通り現在の自衛隊の辺りまで延びている線路があるのを発見しました。いろいろ調べて見るとこの線路は利別からさらに分岐して当時池田町豊田にあった「陸軍第六野戦航空修理廠」まで繋がっていたのだそうで、緑ヶ丘にはやはり飛行場があったのでした。
3)現存する旧陸軍航空修理廠宿舎<池田町豊田>
 池田町の資料にかつての陸軍航空修理廠の配置図がありました。それによると、上空から発見されづらいようにと山陰や林の中に配置されたたくさんの倉庫群と、修理や製作の工場の他に木工、板金、鍛冶工場や発電所も付属する本格的なものです。近くを通りかかったおりに地元の人に、唯一現在残っていて民間で使用されている建物を教えていただきました。旧軍の官舎だったという木造の建物で、戦中・戦後の約70年がんばり続けている建物です。
4)帯広飛行場(緑ヶ丘)
 「帯広市史」に飛行場の写真がありました。コピーのコピーなのではっきり見えないかも知れませんが、無舗装の広場(野原ともいう)に三機の複葉機が写っています。今の感覚で見ると「えっ、これが飛行場?」といった感じですが、小さくて軽い複葉機の時代にはこの程度で問題なかったのでしょうね。これといって比較できるものがないのでここが緑ヶ丘だとは確定できないのですが、地元の人の話では画面右手奥に写っている低い丘が現在の美術館のある丘ではないかということでした。
 飛行場の存在を示す具体物は無いか公園内を探したところ「御親閲場址碑』がありました。市史に「1936年の陸軍大演習の際、昭和天皇が帯広飛行場を会場に分列行進を親閲した。」とあるので、やはりここに飛行場があったのは間違いないでしょう。 ちなみに緑ヶ丘飛行場は1932年(昭和7年)、当時まだ町だった帯広が五千円の町費を出資して着工、翌年1933年竣工。同時にこの年は帯広が市になった年でもあり、東京、札幌と結ぶ空路の一翼を担うという十勝人の夢実現への輝かしいスタートを切ったわけですが、翌1934年には軍用に転用されてしまいます。そこで帯広市は音更雄飛ヶ丘に「市設帯広第二飛行場」を建設するというしたたかさを見せるのですが、経営難もあってこれもまもなく軍に強制接収されてしまいます。 
 この後、1937年から緑ヶ丘一帯は軍用地となり、現自衛隊の位置にさらに軍用飛行場が建設され、おりから中国大陸・太平洋と戦争を進める日本の軍事の一端を担うことになるなるわけですが、敗色濃い1944年には帯広に野戦師団司令部が設置され、同じく第一飛行師団も帯広に進出し、帯広は北海道防衛の中心地となったのでした。
 本土決戦にならないうちに戦争が終わってくれてなによりでした。
 同師団は重爆撃機の部隊だったそうで、坂井自転車店のお父さんはそこで「呑竜」(陸軍100式重爆撃機)のエンジンを整備していたそうです。
 「呑竜」写真で見るとずいぶん大きそうでこんなのが750kgから1tの爆弾を積んで頭上を飛び交っていたのかと思うとあまりいい感じはしません。思わず沖縄のことが頭に浮かびました。
5)緑ヶ丘旧陸軍官舎・宿舎のなごり探し
 昔、私がまだ工務店に勤めていた頃ですからもう32年ほど前になりますが、担当していたYさんのお宅が丁度「緑ヶ丘」でした。もう、うっすらとしか覚えていないのですが、たしか高校生の娘さんがいらっしゃったように思います。今更ですが、この工事の間何度もこの地域を行き来していながら特に周囲に注意をはらうこともなく終わってしまったのが悔やまれます。当時ならまだ旧陸軍関係の官舎・宿舎など建物が残っていた可能性は十分あったはずで、古い建物に興味のある自分にとっては痛恨の思いです。あきらめの悪い性格なのでしょうか「もしかしたらまだ?」と官舎・宿舎があったという緑ヶ丘小学校向かいの街並を歩いてみました。
 戦後すでに70年です。もちろん当時のものがそのまま残っているとは思いませんでしたが、途中散歩している地元のお年寄りに出会い、以前は内玄関の八軒長屋形式の集合建築やたくさんの官舎・宿舎があったことや、いつも飛行機が飛んでいた方角などお聞きすることができました。
 もしかしたら上の写真のような
・間口が極端に狭かったり、ときには軒が重なっている建物。
・外観が池田にある「旧陸軍第六野戦航空修理廠」の宿舎だったという建物に似ているもの。
・外壁や屋根材が部分で異なっている建物。
などに、「もしかしたらかつての軍の建物が敗戦、軍の解体を機に民間に払い下げられた後の姿かな?」など思ったのですが勝手な妄想だったのかも知れません。
 古い水道管
 緑ヶ丘の街の空き地にすっかり錆び付いた水道管が突き出ているのを見かけました。
 帯広で水道の敷設が始まったのは昭和27年を待たねばなりませんが、緑ヶ丘はじめ大川町、依田町などの軍隊関係の官舎・宿舎、施設設備のあったところではそれ以前から水道が引かれていたそうです。とするとこの錆びた水道管、もしかすると戦争前からのものかも知れません。  
6)十勝の航空と軍隊
 上士幌町の自転車屋さんの物入れの奥から出て来た「ガリ版刷の名簿』がきっかけで、軍関係だけでなく帯広・十勝の航空の歴史について知ることができました。
 中でも驚いたのは1925<大正14>年、すでに音更(当時は村)に地元有志によって民間の飛行場が造られていたことです。保有機数1機から始まり最終的には3機体勢にまでなりますが、結局は経営不振で途絶えてしまったのが残念です。北海道で最初の民間飛行場で当時の帯広の人口は2万人ぐらいだったそうですからたいしたものです。
 以下に帯広・十勝の航空・軍隊との関わりを整理して年表にしてみました。
十勝の航空と軍隊の歴史
1925年 音更村有志により「民間航空設置期成同盟」結成。下音更基線3号南(住吉台の一部と音更神社の南西高台)を無償借り受け国から飛行機を払い下げてもらい民間飛行場を開場。「民間航空設置期成同盟」は「北海道義勇空防團」となる。
1929年 資金難で廃止。
1930年 「十勝種馬所」の一部を飛行第5連隊による北海道長距離飛行演習で軍に貸与。戦時は小型軍用機臨時着陸場として使用。
1932年 帯広町「緑ヶ丘飛行場」造成。町費5千円を出資。
1933年 「市設帯広(緑ヶ丘)飛行場」完成。
 帯広、市制となる。
1935年 北海タイムス機、夏期のみ札幌〜帯広間を月二回往復飛行開始。
1936年 「緑ヶ丘飛行場」が帯広市から軍用に転用され浜松飛行隊の一部が常駐。
 昭和天皇の行幸があった。現在碑のみ残っている。
1937年 緑ヶ丘一帯が軍用地として接収され現在の自衛隊駐屯地の場所で本格的な軍用飛行場の建設が開始された。
1939年 帯広市、市設帯広第二飛行場(音更『雄飛ケ丘飛行場』)着工。
1940年 『雄飛ケ丘飛行場』竣工。
 浜松駐屯飛行第62戦隊600名あまりが帯広入り。
1942年 高射砲第24聯隊が音更町鈴蘭台に配備。
 戦車22聯隊(盛岡)鈴蘭台に配備。
1944年 第7師団(旭川駐屯)が本土決戦に備え野戦師団となり、東部北海道配備のため帯広に司令部を移設(将兵2万名、軍馬2千頭、司令部「十勝会館」)。
 同じ頃、北海道全域に展開した第一飛行師団も帯広に進出、大谷女学校に司令部を置いた(北海道庁立帯広女学校校舎借用、同校は二部教授を行う)。同師団の保有機数は97式・100式など重爆撃機約180機(時期により増減)。
1945年 終戦
1946年 軍、解隊
 1933(昭和8)年、今度は帯広に市設の飛行場(緑ヶ丘)が建設されます。
 残念なことにこれはまもなく軍に移管されてしまいます。2年前の1931年に柳条湖事件、前年が満州事変と連続的に中国への侵略を進めていた時期、軍部の勢いも強かっただろうし、以前から軍を誘致したがっていた(らしい)帯広の希望とも一致したのかも知れません。
 緑ヶ丘飛行場を失った帯広市はすぐ音更雄飛ヶ丘に新たな市設飛行場の建設を始めます。帯広第二飛行場と呼ばれたようです。しかし、戦争に突き進む日本の国策からかこれもすぐに軍に転用されてしまうのです。(このへんの事情は「音更町史』「帯広市史』に詳しいので、興味のある方は読んでみて下さい。)
 それにしても大空に憧れる十勝人の覇気を感じます。今から思えば二枚翼の頼りな気な飛行機でしたが、それでも青空に舞い上がる機影は地面に張り付いて生活に汗していた当時の十勝人に少なからぬ希望と勇気を与えてくれたのではなかったのでしょうか。
 戦争が無かったら?
 当たり前の事ですが「時間の経過」は長くなると「歴史」です。その時は空気のように漂っているので誰も立ち止まらず、それを語ろうとはしません。もし立ち止まり語る人がいると「ちょっと違う人?」なのかもしれません。 私はできればまだ空気のように漂っているうちにそれを語りたいと思うのですが。
参考にさせていただいた資料
 日本建築学会北海道支部研究報告集No.75(2002/6)「旧陸軍第7師団施設調査研究」
WEB TOKACHI(2006.08.11)「記者が見た戦争」、「音更町史」「池田町史」「帯広市史」

5.イタラタラキ駅逓所(えきていしょ)跡  <更別村字勢雄454-1>
 帯広を南に抜け、106号線を「とかち帯広空港」の脇を通り抜け「道の駅さらべつ」まで1.6キロぐらいのところに、車だと一瞬で通り過ぎてしまうような川があります。河川名の表示板に「イタラタラキ川」とあります。この河川名の下に「イタラタラキとはアイヌ語で「地面がユラユラゆれるところ」という意味」とあります。また、この橋を抜けたところに『イタラタラキ駅逓跡』の石碑、その後ろに『イタラタラキ駅逓所跡』の説明板がありました。
 つまり「イタラタラキ=ユラユラゆれるところ」に駅逓所(宿泊施設)があったということです。
 『イタラタラキ駅逓所跡』の説明板
  写真では読みづらいので以下に抜粋を載せました。
   
イタラタラキ駅逓所跡
更別村字勢雄四五四番地一
 十勝は明治29年(1896)植民地解放となり、下帯広、現在の帯広市が十勝の中心として位置づけられた。しかし、道路は大津から一本道のみで、十勝川流域は船便に頼るしかなかった。
 明治30年帯広から十勝で最も古くて当時繁栄を誇っていた広尾に至る仮定県道を設けることになり、途中札内川・日方川など川幅の広い所は、渡船とし、道路幅を十二間として側溝が掘られた
 明治31年4月1日、この仮定県道の中間地点にイタラタラキ(以平)駅逓が、滋賀県野州郡中州村出身の吉川茂吉氏が取扱人として開設された。
 大正3年(1914)拓殖道路が仮定県道に編入され、大正5年、イタラタラキ駅逓はその歴史的任務をおえた。
駅逓の制度
  長旅のための宿泊や人馬継立などの便宜を与えるもので、開拓途上の北海道にあって、この駅逓の果たした役目は大きい。
 駅逓には、駅舎と官馬牝二頭・牡一頭・採草地が貸与された。
以上、説明板より
 
 何といっても明治時代のことです。良くわからないことがいくつかありました。そこで、「分からぬ時のネットだのみ」であちこち覗いてみました。
 1. 地面がユラユラゆれるところ
 アイヌの人たちはどうしてこの土地を「地面がゆらゆらゆれるところ」と言ったのでしょう?
 現地は現在浅い川が枝分かれしながら流れていますので,150年ほども昔なら広大な湿地帯だったのかもしれないと思ってもみたのですが、でもそれだと「ユラユラゆれる」よりは「ぐちょぐちょ埋まる」とか「水におおわれたところ」とでも呼びそうです。

 更別村の資料の中に答えがありました。
 このイタラタラキ川周辺は「十勝坊主」というこぶ状の地形におおわれた土地で、こぶの中の空気や水分がクッションの役割を果たし、この上に人が乗ると地面がゆらゆらゆれるため、このように呼ばれ、欧米でも谷地坊主の地形を『アースハンモック』と呼ぶのだそうです。たしかに「ユラユラ」ゆれそうです。
<資料> 十 勝 坊 主(=谷地坊主)
 十勝坊主は永久凍土層上部の土壌(火山灰土)が凍結と融解を繰り返すうちに、こぶ状に盛り上がった形となったもので、欧米でも同様な地形が見られ、アースハンモックと呼ばれている。十勝管内では数箇所で確認されており、特に帯広畜産大学構内のものは天然記念物に指定されている。イタラタラキ地域の十勝坊主分布地は、北海道の学術自然保護地区(勢雄地区)に指定されており、周辺の原始林、植物群落とともに貴重な自然環境を形成している。
   (『農林水産省サイト/2 化石構造土:北海道更別村』より抜粋) 詳しくは
    http://www.maff.go.jp/j/nousin/noukan/tisitu/t_kouzoudo/index.html
 2. 北海道は植民地だった<資料> 植 民 地
 説明板の文中に「十勝は明治29年(1896)植民地解放となり・・・」とあるのだが、とするとそれまでの北海道(十勝)は「植民地」だったということなのか?
「本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にあり、本国に従属する領土」のこと。(Wikipedia)
 幕末からの北海道を追ってみたが、「北海道を植民地とする」というような表記は見つけられなかった。江戸時代の北海道(蝦夷地)は松前藩の管轄下にあったが、主な住民であるアイヌ人は松前藩に属しているわけではなく、むしろ藩直轄の交易の相手として対等な関係にあったらしい。交易による利益が大きくなるにつれ、松前藩だけでなく商人たちも進出、武力を背景に、しだいに不平等・搾取的なものになっていった。幕末にはアイヌ人を漁場・鉱山などで奴隷労働させるようなこともあったという。まさに植民地状態だが、法的・制度的に北海道植民地はあったのだろうか?
 「1898(明治31)年の勅令第37号に「北海道殖民地」の語が使用されている。」という記述がいくつかのサイトで見られたが、勅令そのものは見つけられなかった。ただ、帝国議会において当時日本の領土だった「朝鮮」についての質問に総理大臣が「植民地」という言葉を使って舌禍問題になり、「領土」に言いなおしたことがあったというから、実質は植民地だが、外向けの表現はあくまでも「領土・国土」の語を使った・・・というのが真実だったのかも知れない。
 昔、お年寄りが本州を「内地」と呼ぶのを聞いて不思議に思ったが、実に北海道は大日本帝国の憲法やその他の法律の外(徴兵制度もなかった)の土地、領有する大きな島「内国植民地」の位置づけだったのが、内地からの移民の数が増え、準備の整った地域から徐々に植民地解放され内地なみの扱いになっていった・・・のだろう。
  <参考資料> http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/hokkaido1.htm
 3. 道路幅十二間
 札幌で大通を通るたびに、開拓期の札幌にあの道路を通した明治人のスケールの大きさを感じます。しかし、今回の掲示板の「仮定県道の道路幅を十二間として側溝を掘った」という記述にはびっくりです。道路に関わる仕事をしている人はともかく、一般の人なら道路幅十二間と聞けば約20メートル幅の道路を思い浮かべるのが普通です。明治30年代の北海道、ほとんど人力の時代に原始林を切り開き,丘を削り湿地を埋め・・・幅20mの道路を広尾〜帯広に通したのだ!と思うのではないでしょうか。いくら明治人でもスケールが大きすぎです
 ここに書かれている「道路幅」は「道路敷地幅」のことです。では当時の実際の道路幅はどの程度のものだったのでしょう。
 以前「道知事」だった堂垣内尚弘さんが『第九回日本土木史研究発表論文集 1989年6月号』に招待論文の形で『北海道の道路』という論文を発表されているのですが、その「北海道の道路整備の沿革」の項に当時の「道路築造基準」という表がありました。それによれば『10年計画』における県道の道路築造基準では「道路敷地幅」が12間(約20m)、本当の「造成幅員」は2.2〜2.5間(4〜4.5m)となっています。「イタラタラキ駅逓所」の説明板にある「道路幅を十二間として・・・」というのは「道路敷地幅を十二間として・・・」とするか「道路幅を2.2〜2.5間として」とする方が分かりやすくていいのではないでしょうか。
 ご興味のある方は下記URLでこの論文をご覧下さい。
<参考資料> http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1989/09-0001.pdf#search
 4.  駅 逓 所
 鉄道のない時代の駅とでもいえば良いのでしょうか、『道の駅』(?)どっかで聞いたような。
 ここ「イタラタラキ駅逓所」は港の町、広尾から十勝の開拓の中心地帯広まで、原始林の中の道を、長距離の旅をしなければならない人たちのために、食事、宿泊、人夫、替え馬などの便宜を与えるために設置されたのですが、荒野の道を延々と歩き続けた旅人が遠くに見いだす小さな灯火。この時代、駅逓所はどんなにか貴重なものだったことでしょう。
  半官半民で開拓史から運営費を受け、取扱人のもとに数頭の馬が常備され、人足もいて宿泊や食事の他、次の駅逓所まで貨物や所によっては郵便物運搬等の仕事も請け負っており、当時の輸送・旅 には欠かせない施設でした。
 このような施設は江戸時代『運上屋』『会所』として全国にあったが、明治時代になり廃止され姿を消すのですが北海道ではまだ必要とされ新たに駅逓規則が整備され、最盛期には全道で200箇所以上、十勝にも14箇所以上あったそうです。鉄道開通にともない必要性を失った駅逓所は次々と閉鎖され1948 年駅逓制度そのものも廃止され歴史を閉じたのでした。
 仕事柄、建物としても興味あるところですが、残念な事に十勝管内ではもう残っていないようです。ただ全道的には現存するものや文化財として再建されたものなどまだ見られるようですので、そのうちどこかで出会いたいものです。 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1989/09-0001.pdf#search http://takahashinonuhiro.seesaa.net/article/170509634.html http://www.kitakaido.com/ekitey/ekitey-04.html

 4.タモの樹に支えられている小さなレンガの家  北緯42°-45'17.42" 東経143°-08'31.22"

 川西から中札内への裏道に小さなレンガの家があります。近寄って見ると長い間放置されていた家らしく、窓もベランダもガラスは全て割れ落ちながら、構造がレンガのためか朽ち果てずに残っているのです。中に入ると,台所のかまどや風呂もレンガで組まれています。浴槽はなぜか大小二つあって、「小さい方は上がり湯用だろうか?」など想像も膨らみます。レンガ組も工夫されていて、建て主の愛情が感じられます。
 日高山脈に沈む夕日に赤く照らされた小さなレンガの家が樹の陰にポツンと立つ姿はとても印象的で、もう10年ほどずっと気になっていたところ、昨年末、この近くの農家から建て主が「高嶋さん」とおっしゃること、また高嶋さんご夫妻が現在も帯広市在住と聞き、さっそくお伺いし当時のお話をいろいろ聞かせていただきました。

 高嶋さんは昭和22年、この土地で農業を始めるに当たり,最初、木造2階建(1階:4部屋、2階:2部屋)の住宅を建てました。しかし、当時の木造住宅はあまりに寒かったので10年後レンガ部分が増築されました。高嶋さんは昭和40年に離農されるのですが、それまでこのレンガ部分が夫婦と子供3人、5人家族の生活の中心となります。 
 離農の理由は、当時「10〜20町歩の農地ではこれからは食べて行けない」との国の方針に基づいた「農地拡大地区(※)」の指定があり、十勝で最初に指定されたのがこの大正地区でした。高嶋さんの地区では6件の農家の内、5軒が離農ということで、農業委員をされていた高嶋さんは自分から手を上げたそうです。その後農地が集約され、高嶋さんの家のうち住宅の木造部分、馬小屋(間口16軒、約29m)などは解体されたが、農作業時の休憩小屋としてレンガ部分だけが壊されずに残ったのだそうです。
 建築は帯広の菅野建材(今は無い)さんに相談、野幌のレンガ会社を紹介してもらった。

 この写真は関西に嫁つがれている娘さん御家族が昨年たまたま遊びに来られた時に、「お母さんが生まれ育ったレンガの家」の前で3代の家族で撮影したものです。離農の時には無かつた樹齢45年ほどのタモの大木が壁に張り付くように立っています。

 野幌からはトラツク1台分のレンガと職人が一緒に来てレンガを積んだのだが、高嶋さん自身も流し台、風呂のコンクリート、タイル貼りなど、農作業の後、夜おそくまで自分の手で造ったそうだ。風呂釜の煙もただ煙突に逃がすのではなく、浴室の床下や浴室と居間の間の床下を這わせてから排煙するようにして「ミニオンドル」として暖房にも使っていたそうで、奥さんが「お父さんは凝り性だから・・・」というのもうなずけます。
 お邪魔ついでに、気になっていた大小2つある浴槽の理由を聞いてみると、「上がり湯」のためではなく、「小さな方は子供が遊べるようにと思って造った」との返事にいささか驚きました。いくら凝り性だからといって、ここまでのこだわりは何でしょう。「家族皆が温かいレンガの家」「奥さんの水仕事が楽なタイル貼りの流し台」「子供が遊ぶ浴槽」・・・当時、誰もが経済的にはさほど豊では無かった時代です。

 お金のゆとりというよりは「心のゆとり」ということなのでしょう。いずれにしても「家づくりとは?」を改めて考えさせられました。
 現在78歳におなりの高嶋さん。テーブルの上にはニコンの1眼レフが置いてありました。聞くと「風景の撮影が好きで、レンズにお金は惜しまない」とのこと。まだまだ「凝り性」全開のご様子でした。

 「農地拡大地区」
 昭和40年代に入ってから、高度経済成長政策、後継者問題による農家の減少をたどる中で、海外の農業に対応できる十勝農業確立のため、土地改良、基盤整備、農地及び、草地造成による経営規模拡大と飼養家畜の多頭化、経営の近代化が必要とされるなど、総合農政推進の時代となります。
  北海道十勝の農業より

 3.旧北海道開墾合資会社厩舎(清水町熊牛) 北緯43°-0’49.75° 東経142°-58’21.43°
 道道音更〜新得線から熊牛の集落へ入り、北海道高等芸術専門学校(旧熊牛小)グランド南側の道を東に向かうと「寿光寺」という寺の前をすぎしばらく行ったところに『旧十勝開墾合資会社厩舎』という古い立て看板がありました。
「十勝開墾合資会社」?と思いながら、そのままゆるい坂を上って行くと突き当たりに「SHYBUYA FARM」という農場があり、みごとに繁った木の下に古い説明板がありました。これによれば、この辺りは明治時代に渋沢栄一氏によって設立された『十勝開墾合資会社農場』(渋沢農場と呼ばれたらしい)があったところで、その木造の厩舎が現在も使われているということでした。
  渋沢栄一氏
  (1840〜1931)
 天保11年埼玉生まれ。慶応3年(1867)パリ万国博覧会に出席する徳川昭武(慶喜の弟)に随行し、株式会社組織や金融制度など経済政策への見聞を深めた。明治2年(1869)新政府で国策立案に関わり、官業を創設に尽力。退官後、第一国立銀行の頭取,王子製紙など多くの近代的企業の設立と発展に寄与した。大正5年実業界から引退後も社会公共事業や国際親善に力を注いだ。基本的に民業主体という近代的な会社資本の考え方を持ち財閥を作らない経済人で、「近代資本主義の父」と呼ばれた。
 北海道の振興も民力に委ねるべきと訴え、1898(明治31)年、社長に渋沢喜作(いとこ)、農場長に札幌農学校でアメリカ式農業を学んだ町村金弥(町村金五・元道知事の実父)を抜てき、「十勝開墾合資会社」を設立。
機械を用いるアメリカ式大農法を成功させ全国の農業改良につなげる考えだった。また産業を支えるには輸送手段、教育
    説明要旨
 明治30年(1897年)、渋沢栄一ほか十名が十勝川沿岸の約三千五百万坪(11,570ヘクタール)の貸付を出願。翌年社長に渋沢喜作(北海道製麻会社社長)、農場長に町村金弥を配置し十勝開墾合資会社を設立した。当時熊牛農場の厩舎として建築した建物がその後一部改築され、現在も厩舎として使用されている。
働く者の心の支えが必要とし、鉄道誘致、学校・寺の建設なども行った。
 1929年の大恐慌以来、小作争議が全国で多発すると、氏亡き後の三代目の農場長は渋沢氏の遺志として、1934年、率先し
て農地解放を行い、1936年「十勝開墾合資会社」を終了させた。


以上、主として『清水町100年史』より
 鉄道(河西鉄道熊牛駅)はすでに廃線になっており、明治34年に建てられた熊牛小学校も平成17年に廃校となっていたが、寺(寿光寺)は現在も残っている。

  2.印刷店(清水町)
 清水町の街の一角に小さいけれどしっかりとした建物があります。この建物、元々は北海道拓殖銀行の建物だったそうです。建てられたのは、昭和11年(1936年)だそうですから、かれこれ75年経つわけですが今も現役で働いています。
 アール型の窓や入口が建築当時の様式を物語ります。
 中に入ってみるとカウンターや扉など、ほとんど当時のままで使われていてノスタルジックさと頼もしさを感じる建物です。

 1.坂の上の住宅(芽室町)
 芽室町坂の上にある農家宅地に建つ住宅です。
 建てられたのは昭和26年(1951年)ですから60歳というところですが、すでに廃墟となり老朽化がかなり進んでいました。
 なんとなく気になって通りがかりに内部を覗いてみると、この建物には、かつて住んでいた家族の温もりが、たくさん残っているのです。
 思い出と愛された記憶を胸に、静かに寿命をまっとうしようとしている・・・幸せな建物だと思います。

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